災救隊 台湾・救災聖労隊 活動リポート(6月8日記)

■2011年6月11日

□動画はこちら□

災害救援ひのきしん隊は6月2日、福島県相馬市に新たな宿営地を設置するとともに、おやさと隊14人を派遣。岩手県の2カ所、宮城県の1カ所を合わせた計4カ所を拠点に、活動を展開している。

各教区隊が相次いで被災地へ入るなか、5月28日からは、唯一の“海外隊”である台湾伝道庁「救災聖労隊」(黄登洲隊長)が出動した。10年前に結成された同隊が、日本国内の被災地で活動するのは今回が初めてとなる。活動の様子を、天理時報6月12日号掲載のリポートから一部抜粋する。

震災発生以来、台湾では多くの義援金が集まるなどさまざまな支援活動が繰り広げられている。台湾伝道庁では、震災翌日から本部神殿で勤められたお願いづとめに合わせて、おつとめを勤めるとともに、救援募金を開始。さらに、救災聖労隊の対応についても臨時会議が開かれた。

その後、福島第一原子力発電所の事故の影響で、在日外国人が国外へ退避するケースが相次ぐ中でも、今回の出動に際して、隊員たちは家族や周囲の人からさまざまな形で後押しを受けたという。


5月27日に台湾伝道庁(台北市)を出発した隊員9人は、翌28日に天理入りし、本部神殿でお願いづとめを勤めた。

陸路で新潟教務支庁を経由した一行は、29日、岩手県一関市の千厩宿営地へ。翌30日から本格的な救援活動がスタートした。

初日は、岩手県陸前高田市の避難所で炊き出しに当たる予定だったが、台風の影響で風雨が強まることが予想されたため、あらかじめ宿営地で作った豚汁を避難所へ届けた。

陸前高田市内の総合スポーツ施設「サン・ビレッジ高田」には、いまも約120人が身を寄せており、ここでの災救隊による炊き出しは、この日で12回目。

配食の際には、避難所生活を続ける人たちに少しでも喜んでもらおうと台湾から持参した、名産の烏龍茶のティーバッグも振る舞われた。

烏龍茶を配る隊員の一人は「すぐにでも被災地へ行きたいという気持ちが強かったので、活動できてうれしい」と笑顔で被災者と接していた。

配食を終えて宿営地へ戻る隊員たちに対し、被災者たちが施設の玄関先まで見送りに来るひと幕も。人々から大きな拍手が送られ、思わず涙を流す隊員の姿も見られた。

活動2日目は、宮城県気仙沼市の避難所での炊き出しと、同市河原田地区での瓦礫撤去に分かれて実動した。

津波により大きな被害を受けた河原田地区には、いまなお多くの瓦礫が残る。

午前中、隊員5人が作業に当たったのは、スポーツ店を営む70代の女性宅。昨年、新築したばかりという自宅の1階は津波で冠水。かろうじて2階部分に生活スペースが残っている状態だ。

女性宅前の駐車場にこびり付いたヘドロをスコップで丁寧に除去する隊員たち。その様子を見ていた女性は「わざわざ台湾から駆けつけてくださり、本当にありがたい。必ずこの家で、もう一度生活します」と話した。

午後は、千葉教区隊とともに地区内の別の場所で瓦礫撤去に当たったほか、松岩公民館と松岩小学校でそうめんの炊き出しを実施した。

黄隊長は「『人さまに喜んでもらいたい』との思いを、一つひとつの作業に込める大切さを今回ほど強く感じたことはなかった。国や人種を超えてたすけ合うことこそ、陽気ぐらしに向かう姿だと思う。今回の出動を通して、隊員一同あらためて、人だすけの喜びを分かち合うことができた」と語った。

(6月8日記、天理時報6月12日号から一部抜粋)


[千葉教区隊の隊員らとともに、黙々と瓦礫の撤去に当たる台湾の隊員たち(5月31日、気仙沼市河原田地区で)]



[隊員たちは「謝謝」と声をかけながら、被災者に豚汁を手渡した(5月30日、陸前高田市内の「サン・ビレッジ高田」で)]

* * *

【救災聖労隊】

台湾における災救隊活動は、1999年9月に発生した「台湾大地震」の際、台湾青年会を中心とするメンバーで急遽結成された「災區服務隊」が始まり。同隊は、1999年10月から延べ12次にわたって被災地へ出動した。

2001年3月、災救隊本部公認のもと、正式に隊を結成。2005年には「災救隊の意義に即した隊名を」との思いから、「ひのきしん」の訳語である「聖労」を入れた現在の名称となった。

これ以降も、2009年に台湾南部を襲った台風の影響で、河川の氾濫や土石流などが発生した「八八水害」などの現場へ出動。日本国内での訓練参加などを続け、今年、正式結成から10年を迎えた。